そしてこれらのメンバーが、後にフランス自動車クラブ(ACF)を結成し、自動車レースの運営にあたる。

話は少し先にとぶが、モーター・スポーツ運営団体は、一九二二年にAIACR(承認自動車クラブの国際連盟)となり、さらに第二次大戦後にはFIA(国際自動車連盟、わが国のJAFもその傘下)へと発展する。

さて、世界初のこのレースの全長は一一七八キロと長大であり、自動車誕生後わずか一〇年間に自動車そのものの発達がいかに急速に(フランスで)行われたかを物語っている。

四六台のエントリーがあったが実際にスタートしたのは二二台で、うち一五台がガソリン、六台が蒸気、一台が電気だった。

そしてここでも、蒸気車に対するガソリン車の優位は明白に示された。

完走したのは九台だったが、上位八車はガソリン車だったからである。

それはまさに、今の中古車トラックなどの輸送にかかわる自動車の登場するきっかけとなり、物流がさらに速くなる原動力となるのである。

先頭でルーアンに着いたのは、ド・ディオン蒸気トラクターで、所要時間は六時間四八分、平均時速は一八・六七キロ、二、三位はプジョーである。

ただしド・ディオン車は操縦に二人を要したため二位と判定され、プジョーとパナールが一位となった。

賞は個人でなくメーカーに与えられた。

二一台中完走できなかったのは四台のみで、それだはみな蒸気車だった。

このあたりからガソリン車の蒸気車に対する優位がしだいに確立されていく。

それはまさに、今のトラック中古車輸送にかかわる自動車の登場するきっかけとなり、物流がさらに速くなる原動力となるのである。

史上初の本格的なスピード・イベントである。

"パリーボルドーーパリ・レース"は、「ルプティ・ジュルナール」紙が、事故など起きては、と尻込みしたため、ド・ズューラン男爵をはじめとする自動車愛好家が委員会を構成し、レースの運営にあたることになった。

ハンドルの切りはじめの動きの鈍いクルマ、鋭いクルマ。

町中では身のこなしが素直なのに高速走行になると、ちょっとハンドルを切っただけでスパッと鋭く大きく曲がるなどなど、中古トラックによって1台1台ハンドルの癖は違います。

それを知らずにただ漫然と運転していると、いつまでたっても自分のクルマに合ったハンドル操作をマスターできません。

たまには「このクルマはハンドルを切るとどういう反応をするのかな」ということを意識しながら、ハンドルを切ってみることが大切です。

そういった意識を持って運転していると、自然にスムーズなハンドル操作を行なうようになり、知らず知らずのうちに運転も上達していきます。

手のひらに汗をかきやすい人には、手袋を使うことをおすすめします。

白い布の手袋は滑りやすいし、だいいちあまりカッコいいものではないので、できれぼ、革製の運転専用タイプを使うといいでしょう。

ハンドルの回し方ですが、これが基本というものはとくにありません。

教習所で「やってはいけない」と教える送りハンドルも、べつに悪いことではなく、むしろスポーティな走行には欠かせないテクニックです。

教習所スタイルがいちばん操作しやすいのなら、もちろんそれでもかまいませんし、場合によっては、両者を組み合わせるのもいいでしょう。

ハンドルの回し方について重要なことを一つだけ挙げるとすれば、運転姿勢を保持することです。

ハンドルを回しているときに、肩や背中がシートから離れてしまう人が意外に多いのですが、そうすると、ちょっとした遠心力でも大きく姿勢が崩れてしまうため、が正確なラインを描いてカーブを曲がっていかなくなります。

また、スムーズに走るためには、中古車トラックの特性に合ったハンドル操作が必要です。

自動車排ガスの昭和50年、51年規制(いわゆる日本版マスキー法)の実施に備え、環境庁は昭和48年5月から6月にかけて国内自動車メーカー9社を呼んで聴聞会を開いた。

この席での発言で、規制に対する姿勢が中堅メーカーと大手メーカーの間で際立って違ったのが目立った。

本田技研工業と東洋工業(現、マツダ)は「50年規制については十分対応できる」と明言したのに対し、トヨタ自動車工業(現、トヨタ自動車)と日産自動車は「技術開発のメドはついた」としながらもトヨタは「二十数車種について一斉に実施するのは不可能」、また日産は「暫定規準の設定も必要」と、いずれも段階的な実施を要望して消極的な姿勢をとり、当時の世論から厳しい批判を受けた。

トヨタと日産は、2年前の46年5月に米国環境保護局(EPA)が自動車排ガス規制に関する特別公聴会を開いた際も、服部・米国トヨタ副社長と川添・米国ニッサン副社長は、マスキー法について「不可能な目標であり、基準の一部を修正する必要がある」と主張している。

このような大手2社の姿勢に対し、「本田技研やマツダなどの中堅が対策を約しているのに、大手ができないというのは怠慢だ」との声が高まり、風当たりは極めて厳しかった。

この確約ができなかった理由として、大手は販売車種が多く、全ての車種でクリアできる保証がなかったからだ。

現在はこの規制を完全にクリアしたバスやトラック中古車が街中を走っている。

「電子制御式ガソリン噴射装置も、ボッシュ社から日本電装が基本技術を導入し、トヨタ自動車との共同研究で改良しました。

電子技術は1948年(昭和22年)のトランジスタや、その後の集積回路(IC)の開発によって、家庭用電化機器などの面では急速に進みましたが、自動車に使うとなるとまだまだ問題が多いのです。

自動車の場合は家庭用電化機器と違って高温、振動などに対する信頼性が特に必要だし、強い電磁波の影響による誤作動にも耐えるようにしなければなりません。

これらを克服するために大変な努力を重ねた末、電子技術が自動車にも使えるようになり、その結果として電子制御式ガソリン噴射装置が実用化されたのです。

このようにして開発された三元触媒、酸素センサー、電子制御式ガソリン噴射装置の三つを組み合わせたシステムによって、私たちは世界で一番厳しい53年規制を乗り越えることができました。

なお電子制御式ガソリン噴射装置を実用化する時に開発された数多くの電子技術は、その後もトランスミッションやステアリング、ブレーキなどの制御に幅広く使えるようになり、今日のカーエレクトロニクス時代の幕開けに役立てることができました」

この規制をクリアしたおかげで、現在の乗用車、バス、トラック、中古車トラック、などの全ての車がきれいな排気ガスを出しています。

「当時の三元触媒がうまく機能するには、エンジンの吸気の空燃比を微妙に調整しなければならない、という条件がつついています。

これは酸素センサーを使うことによって解決できました。

酸素センサーは西ドイツのボッシュ社の特許を導入し、トヨタ自動車と豊田中央研究所、および日本電装が共同研究で大変努力した結果、耐久性、信頼性、コストなどの面で実用化に成功したのです」

この触媒と酸素センサーの合わせ技で排ガス規制を乗り切ることに成功しました。

これ以降、バスや中古トラックやトラックの排ガスは以前のような咽返るものではなくなります。

「トヨタ自動車が2,000㏄以上の大型車について規制を乗り越えることができたのは、三元触媒、酸素センサー、電子制御式ガソリン噴射装置(EFI)の三つがそろったからです。

三元触媒については、1969年(昭和44年)にカリフォルニア大学のスタークマン教授が『すぐれた触媒を使えば、一つの触媒で一酸化炭素(CO)と窒素化合物(NO)を同時に除去できる。つまり酸化触媒と還元触媒の両方の働きをさせることができるだろう』と予言しています。

スタークマン教授は、のちにGMの環境担当副社長に招かれています。

また翌70年5月にはユニバーサル・オイル・プロダクツ(UOP)社が、NO、CO、炭化水素(HC)の3つを、1つの触媒で除去するシステムを開発、これをワンベッド触媒コンバータと名付けました。

トヨタの場合は、これをさらに改良して、より優れた触媒コンバータを生み出しました。

これが三元触媒と呼ばれているものです」

この触媒の発展があり、乗用車や中古車トラックは規定をクリアした排ガスのみを出すことに成功しました。

「昭和24年10月になって、やっと乗用車の製造禁止は解除されましたが、そのころから米国のゼネラル・モーターズ(GM)社やフォード社が日本に完成車の売り込みをかけてきました。

このままでは日本の自動車市場は米国に席巻されてしまう。

そこでなんとか日本にも自動車工業を育成して輸入をハネ返したい、と考えたのです。

これはそのころ自動車に関心を持っていた私たちに共通した"悲願"ともいうべきものでした。

昭和27年に通産省の自動車課で、とりあえず『国産乗用自動車の理解のために』というパンフレットを作って世論に訴えました」

国産乗用自動車が作れれば中古トラックやトラックを乗用車代わりにしなくて済みます。

「昭和30年にはトヨタ自動車工業(当時)がクラウンを製造したのをはじめ、全国で月産2000台くらいの乗用車が生産されるようになりました。

日本の自動車工業もやっと本格的な軌道に乗り始めた、といえるでしょう。

しかし消費者の立場から見た場合、これらの乗用車は価格が100万円を超えており、大企業の社用かタクシー向けで、個人用には程遠い。

私たちの目標は、個人でも買えるような価格の乗用車です。」

通産省が昭和30年に作った国民車構想はどのような背景と考え方から生まれたのだろうか。

国民車構想の中心になった担当者の1人は、当時、通産省自動車課の技官だった川原晃氏である。

川原氏は、国民車構想が生まれた背景について次のように語った。

「昭和22年に通産省の前身の商工省に入り、自動車を担当しました。

そのころは連合軍総司令部(GHQ)の指令で乗用車の製造は禁止されていました。

そこで自動車工業会の田中富士雄専務理事を中心に、トヨタ自動車工業、日産自動車、いすゞ自動車の若手社員らと同志的結合によるグループを作り、GHQの自動車工業担当官のところへ日参するなど、乗用車の製造禁止の解除に奔走しました。

戦争に負けたからとはいえ、乗用車の製造ができないなど、今の若い人たちには想像もできないことでしょう。

『日本人に生まれたばかりに、乗用車の利点を味わえないのは情けない。なんとかしよう』と、同志の間でよく話し合ったものです」

戦争に負けたからとトラックや中古車トラックを乗用車の代わりにするなんて屈辱でしかありませんからね。